こんにちわ!あったん先生です。
みなさんは何かわからないことや知らないことがあった時、どのようにその疑問を解決してきたでしょうか?
幼少期にはなんでも疑問に思い、大人への「なんで?」期が始まって、そのうち学校で辞書の引き方を習う。
時には周りの大人だけではなく友達が自分の疑問を解決してくれ、少しづつ「自分で自分の疑問を解決していく」というスキルが発達します。
そのうちに少しづつネットという外界に触れ、身の回りにいる人間だけではない世界で、自分の疑問を解決するようになっていきます。
今や、知らない単語や漢字の読み方、冠婚葬祭のマナーや起業の仕方まで、ネットで知識を得られる時代。
その中には
といった「自分で考えろ」的な質問に対し、
といったまさかの呪術推しの回答や、人には聞きづらいセックス関連の悩み事について、(良くも悪くも)トンデモ回答を飛ばしている人もいます。
しかし、端から見れば
「そんなのある程度の常識があればおかしいことくらい分かるだろ?」
といったトンチンカンな答えを真に受け、本気でそれを得た知識の一つにしようとしている人がどんどん増えてきているように思うのです。
彼らの共通点はただ一つ。
「考えることをやめてしまった人たち」であること。
考えることをやめてしまったから、「そんなの人によるでしょ」といった悩み事への回答を全てまともに捉えてしまうのです。
彼らには常識がないわけではありません。しかし彼らは情報の間引きができないのです。
間引きとは、増えすぎたものを人為的に(故意的に)減らすという、植物の栽培において不可欠な作業。
そしてこの情報過多時代に生きる人間にとっても、これはかなり需要な作業です。
しかしながら、これは人に教えられて覚える作業ではありません。
自然と身につけるスキルの一つです。
でも「考えることをやめた人たち」はこの能力が著しく低いように思います。だから溢れかえった情報の全てに振り回され躍らされ、そしてまた自分で考えることをやめていくのです。
浅はかな歳の取り方に思います。。
見知らぬ人へ疑問を投げかけることを100%否定するつもりはありません。中には考えて考えて考えすぎた結果、頼れる人もいなくネットへ疑問を投げかけるしか方法がなかったという人もいます。
でももらった答えを取捨選択するセンスと義務は、疑問を投げかけたその人自身にあるのです。
情報過多が生み出す不幸

現代の世の中には答えが溢れかえりすぎています。
それゆえ「考えることをやめた人たち」が大量生産されてきているのです。
わたしは個人的に、そんな人たちを不幸だなぁと感じます。
考えることをやめるたびに、感情の幅が狭くなり思考の振り幅も減るのです。
そのうち自分ではなにも解決できなくなり、自分というアイデンティティが死ぬのです。
「アイデンティティってなに?」
とここで早速Google先生に聞こうとしているあなたに特別に解説を付けますと、つまりは「自分のキャラ」のことです。
自分の得意なこととか、自分という存在を語るにおいて欠かせないワードだったりとか、そんなようなことです。
なにも毎日自分のことを考え続けるナルシストになれといっているわけではありません。
でもたった一つのことを、些細なことだったとしても考えるのをやめると、いい歳をした大人になっても自分のことを自分で決められない大人になってしまいます。そしてそれが自分の感情をも殺していくのです。
そんな人間に「深み」などは一切生まれません。
人間誰しも、自分一人では生きてはいけません。
しかし、だからと言って周りにいる人たちに自分のアレコレを決めてもらいながら生きていくこととは訳が違います。
答えが出なくてもいいから、まずは「考えること」をやってみる。
わたしはその「考えてみたこと」やその時間にに価値があるのではないかなぁと思います。
思うところがあり、こんな真面目なことも綴ってみましたが。
いつもしないことをすると天気が大荒れになるジンクスがありますので、明日からはまたセックスのことについて考えておきます。おっぱい。
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